【歴史】横井庄一という名の伝説の戦争サバイバル軍人

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横井庄一という方をご存じでしょうか?

椅子から立ち上がるときに「よっこいしょういち」という掛け声で有名な方

ではなくて、戦時中に戦争の終わりを知らずにグアム島でサバイバル生活をして生き残った方です。

先日、ワンピースの作者が残ったから揚げのことを横井軍曹と言ったことに対して炎上していました。

このことに関しては後述するとして、彼は一体どんな人なのでしょうか。

横井庄一を敬愛してやまない私が簡潔にご紹介したいと思います。

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横井庄一とは


1915年~1997年まで生きた陸軍軍人です。

1944年グァムの戦いにおいて、彼はグアム島に上陸していました。

1945年ポツダム宣言の受諾により、戦争は終結したんですが、彼は戦争の終結を知らずにそのままグアム島に残っていました。

28年の時を経た1972年、無事日本に帰国しました。

つまり 28年間サバイバル生活をしていたということです。

残留日本兵の代表のような方です。

なぜ発見されなかったのか

一番の疑問はなぜ横井庄一さんは発見されなかったのかということでしょう。

当時グアムでは戦争の終結を残留兵のためにビラだの降伏勧告により知らせていました。

多くの残留兵はそれを機に帰国していきました。

しかし、 横井庄一さんはそれが日本人捕虜による米軍の罠だと思い、受け入れることはありませんでした。

見つかったら殺される、捕虜になるぐらいなら死んだ方がマシだという固い決意がそうさせたのでしょう。

ジャングルの奥深くに洞穴を掘り、そこに隠れて28年間過ごしたのです。

グァムからの脱出を試みる

塩分もありませんし、海を求めてグァム島からの脱出も試みます。

しかし、久しぶりにジャングルから出てみると、グアムは道路などが整備されて近代化されており、横井さんはもう米軍に見つからずに逃げることは不可能だと悟り、またジャングルの中に戻っていきました。

どうやって生きたのか

生きるために最低限必要なものといえば衣食住です。

しかし、当然ながら横井庄一さんにそんなものは用意されておりません。

衣類

横井庄一さんは洋服の仕立て屋の経験がありました。

そこで、ヤシの実の繊維を利用して、草履などを少しずつ織っていきました。

最後には機織り機まで作ったそうです。

住居

ジャングルに隠れていたらいつかはアメリカ兵に見つかって殺される。

その思いから地下に隠れることを思いつきました。

深さ何mもの穴を掘り、失敗を繰り返しながら人が生活できるスペースを作り上げていったのです。

食事

植物を中心に採集して食いつないでいました。

当然毒があるもの無いものがあるため、自分が食べてみて食べ方や毒の抜き方を学んだそうです。

しかし、そんな食生活ではタンパク質不足に陥ります。

そこで仕立て屋の経験があり、手先が器用な横井庄一さんは罠を仕掛けてネズミや蛇、魚を狩猟することに成功します。

こうしてすべて現地調達の食生活を続けていきます。

生魚などを食し、何度も腹痛になったことでしょう。

台風などで食糧難になったときもあったそうで、考えられない程過酷な食生活だったことは容易に想像できます。

油の大切さ

島にあるココナッツミルクから油を抽出することに成功します。

油を手にすることによって横井さんたちの生活は激変します。

ランプに明かりを灯すことは勿論、捕まえた動物を焼いて食べることなど多岐に渡って重宝されたようです。

恐怖との闘い

横井さんたちは捕まったら殺されると思い込んでいます。

サバイバル生活な上に、この恐怖心は拭い去ることができないでしょう。

そんな中、上記の物作りや作業はそういった恐怖心を忘れることができる唯一の作業だったそうです。

ものづくりに熱中すれば、何も考えず一心不乱になれる。そういった心境だったのでしょう。

他の戦友達の行方

横井庄一さんは2人の年下の男と3人で生活していました。

しかし、同じ洞穴で生活していると、どうしても年齢差がある他二人とは揉め事が多くなってきました。

そこで、横井さんは一人で住むことを決断し、別に洞穴を掘り始めそこで一人での生活を始めました。

その 戦友たちは横井さんが発見される8年前に死亡したそうです。

横井さんは完全に一人になり、心の拠り所もなくなりました。

なぜ発見されたのか?

現地住民が狩猟でジャングルにいたところ、偶然横井庄一さんを発見しました。

勿論横井庄一さんは死を覚悟します。

戦争はもうとっくに終わっているのですんなり事が進むと誰もが思います。

しかし、実際には発見されたからといって一安心というわけではありませんでした。

発見者の一人の身内が日本兵に殺された過去があるため、日本兵に強い恨みを持ち、横井庄一さんを殺そうとしたそうです。

しかし、もう一人が諫めたことによって横井庄一さんは殺されることなく、無事保護されました。

帰国

1972年についに日本に帰国します。なんと28年間もサバイバル生活を営んでいました。

グアム自体もすっかり観光地になっているという時代です。

帰国した際に「恥ずかしながら生きながらえておりました」と発言し、これは流行語にもなりました。

全く恥ずかしいことではありません。大変立派です。

帰国後

高度経済成長を経た日本の技術や生活の変化は凄まじいものがあり、それはびっくりしたことでしょう。

しかし、横井庄一さんは意外にもすんなりと生活に順応されたそうです。

サバイバル生活で生き延びれるだけあり、こういった順応性は抜群だったんでしょう。

また結婚もされます。

帰国してから、世間から物珍しい目で見られた横井さん。

当然、人間不信にも陥ります。

そんな中、幡新美保子さんという一人の女性が横井庄一さんの心を開きました。

その後、日本の生活に馴染みつつ、1997年まで余生を過ごしたそうです。

横井庄一の凄さ

全てが凄いです。

順応性、サバイバル能力、手先の器用さ、意志の強さ

戦友たちは20年で亡くなったことを考えると元々の体の強さも兼ね備えていたのは間違いないでしょう。

なによりメンタルが凄い。

現代人であれば、一人になって8年間生きるだけでもメンタルが崩壊します。

サバイバルおばけでありメンタルおばけです。

その他の残留日本兵

横井庄一さん以外には有名な方で小野田寛朗さんがいます。

小野田さんも戦争は継続中であると考え、フィリピンにて1974年まで戦闘を継続していました。

小野田さんに武装解除を促しましたが、戦時中である当時の上官でないと武装解除命令は受け入れられないと武装解除を拒みました。

そこで、当時の上官により武装解除命令されたことにより、ようやく帰国に至りました。

こちらも凄い話です。

ワンピースの作者による問題

ワンピースの作者が残りの唐揚げのことを横井軍曹と家庭内で呼んでいたそうです。

正直、何が問題なのかはよく分かりません。

歴史っていうのはいいこと、悪いこと込みで歴史です。

それをどういった形で解釈して伝えるかはその人次第だと思います。

たとえ小馬鹿にした形で自分の子供たちに伝えたところで、その子供たちが横井庄一さんのことを知るきっかけになります。

このご時世、横井庄一さんを知らない子供の方が多いはずです。

知ったことにより、その子供たちなりに生きていく中で横井庄一さんを解釈して、また次に繋げていく。

私個人と致しましては 『横井庄一さんのことを知らない』ということのほうがどちらかと言えば罪だと思います。

歴史とは基本的に先入観や偏見たっぷりのものだし、どんな形でも伝えていくことが最優先されると思っています。

公の場で言ったことが問題だということもありますが、いちいちそんなことで炎上していたらきりがないように思えます。

とはいえ、このご時世そういった炎上やクレームは仕方ないかもしれません。

逆に今回の件で多くの人に横井庄一さんを知ってもらういいきっかけになったと捉えることもできます。

おかげさまで横井庄一さんを尊敬している私もこの記事を書くきっかけになりました。

一人でも多く、横井庄一さんについて知って頂ければと思っております。

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